完読No.65 神の発見 五木 寛之 著(書き下ろしエッセイ+トーク) 対談者 森 一弘(カトリック司教)

doradora05112005-08-31

帯の文句

いま迷いつつ生きる現代人へ!
私は自分で勝手にブッディストだと思っている。ブッダと一般に呼ばれる釈迦に深く共感し、その思想と生きかたに帰依してきた。しかし奇妙なことに、いつも読んで感動するのは聖書である。親鸞の言行を記録した「歎異抄」を読んでも、ああ、このくだりは聖書のなかのあの部分と重なるな、と感じたりするのだから困ったものだ。(略)なぜキリスト教的風俗を大好きな日本人の大部分が、かたくなにキリスト者となる道をこばむのか。なぜに私は、聖書に深い感動をおぼえながら、いまだにブッディストなのか。とりあえずまったく無知の立場で、キリスト教とその歴史について知り、語りあうことから始めなければならないだろう。−(「まえがき」より)

途中まで読んだ感想。
字がデカイ。読み易い。
心に残った個所。
慈悲の意味。慈の愛と悲の愛。

五木
慈(マイトリー)は、ヒューマニズムを訳してもいいですし、フレンドシップと訳してもいい。近代人ならだれでも、理解できるものなのですね。
 ところが悲(カルナー)は、字引を見ると−思わず知らず漏れ出ずる、ため息のような、呻き声のような感情−などと書いてあって、なにかはっきりしない。本能的で、盲目的で、前近代的なんですね。ひょっとしたら、悲は、聖母マリアに通じるかもしれない、そんなふうに思ったりします。

書いたからといって何の事か分かっているわけじゃないの。
結局、五木さんが森司教に個人的に聞きたかった事を聞いたって本です。
仏教の知識もキリスト教の知識も中途半端な私としては、ん?と思うことばかりでした。